自宅から真紘のアパートまでは、自転車なら15分ほどの道のりだ。謙司のバイクなら10分とかからなかっただろう。途中、謙司が事故に遭った交差点を通過するときは少しだけ緊張した。
アパートの前に自転車を止め、真紘の部屋のドアをノックする。しかし、真紘が出てくる気配はない。下に彼のクロスバイクがあったから、出かけたとしてもそう遠くへは行っていないはずだ。携帯電話を鳴らしてみようかとポケットを探ったとき、鷹也は昨日の真紘の言葉を思い出した。
「なにもすることがないときは、すぐそこの土手でぼうっとしてることが多いかな」
電話をかけるのをやめて、急ぎ足で土手に向かった。30メートルほど先に階段があったが、かまわず目の前の斜面を登る。枯草に覆われたでこぼこの地面に足をとられながら登りきると、鷹也はあたりを見まわした。 真紘はすぐに見つかった。斜面を少し下ったところで腰を下ろし、遠くを眺めていた。 ふと、悪戯心が頭をもたげた。鷹也は真紘に気づかれないように気配を殺して近づいていく。 白んだ陽光の下で見る彼は、すべてが薄ぼんやりしていて頼りなかった。細くて柔らかな髪は透けるような茶色をしており、ニキビの痕がひとつもない肌はまるで白い花びらのようだ。作業服を着ていないと、性別さえもあやふやに見える。
人ごみの中なら誰もが振り返りそうな容姿をしているにもかかわらず、ひとりでいると景観の中に溶け込んで消えてしまいそうなくらい掴みどころのない不安定な存在感。 それが鷹也を不安にした。 「真紘」
そっと近づいて驚かそうと思っていたのに、思わず名前を呼んでしまった。そうしなければ、手が届かなくなるような気がした。
「ああ、きみ……鷹也くん」
真紘は鷹也を振り返って微笑んだ。 鷹也の胸に安堵が広がる。 「クンはやめてよ。鷹也でいいよ」
鷹也も彼の隣に並んで腰を下ろした。
「なに見てたの?」
「べつになにをってこともないよ。ただぼうっとしてるだけ。それより鷹也は勉強しなくていいの? 受験生だろ?」
鷹也は苦笑した。
「息抜きしに来たのに、嫌なこと思い出させないでよ」
「息抜きが必要な程度にはがんばってるってこと?」
「……真紘って意外と意地悪だね」
鷹也が拗ねたように言うと、真紘は楽しそうに笑った。初めて見た彼の笑顔に、鷹也は目を瞠った。
真紘が訝しげに見つめてくる。
「どうかした?」
「いや……真紘も笑うんだなと思って」
「失礼しちゃうな。おれだって仕事仲間と冗談言って笑ったりするよ」
真紘が冗談を言う姿など、鷹也には想像できない。
「でも、昨日はそんな顔、一度も見せなかったから」
「仕方ないじゃん。鷹也だって初対面の相手の前では緊張するだろう?」
初対面。
その一言が、刃物のように鷹也の心を切りつけた。 「初対面じゃないよ。俺と真紘は……」
「あ……ごめん」
けれど、真紘にとっては初対面なのと同じだ。それでも真紘は、理不尽な怒りを向けられたことに反発するでもなく、自分の失言を詫びた。彼の気持ちを考えると、鷹也は居たたまれなくなった。
「違う……、今のは俺が悪い」
それきり鷹也はなにも言えず、遠くの景色に目をやった。
河川敷の原っぱでは、数人の子どもたちがボールを蹴って遊んでいる。そのうちに、ひとりの少年がボールを拾い上げて走り出した。それをほかの少年たちが追いかける。
不意に真紘が言った。
「おれたちが一緒に遊んでたのって、あれくらいの頃かな。聞かせてよ。おれたちはいつもなにして遊んでたの?」
横目で隣を窺うと、真紘の視線は少年たちに注がれていた。そんなはずもないのに、真紘の眼差しはまるで昔を懐かしんでいるように見えた。
「兄貴から聞いてないのかよ」
「謙司さんは、あまり昔の話はしなかったから……」
ちょっと意外だった。謙司ならきっと昔の思い出をたくさん話して聞かせたに違いないと、鷹也は思い込んでいたのだ。
まだ自分にも真紘のためにしてやれるとこがある。それがわかっただけで、鷹也は少しだけ謙司より優位に立てた気がした。
常におまけ扱いだった当時を振り返りながら、かつて小さな心の中に溜め込んでいだ鬱屈を晴らすように、鷹也は真紘に語りかけた。自分がどこまで憶えているか少しだけ心配だったが、いったん記憶のしっぽを捕まえると、次から次へと思い出が甦ってくる。 ふたりを見つけられずに鷹也が泣き出したかくれんぼや、鷹也がどぶ川に落ちた探検ごっこ、真紘が蜂に刺されて大パニックだった虫捕り。3人で一緒に入ったビニールのプールは、底に穴が開いていて大笑いした。 「水を入れても入れてもどんどん抜けてっちゃって、水道を出しっぱなしにしてたら、母さんにすごく叱られた。真紘も一緒に庭に正座させられたんだよ。普通、よその子どもを正座させるか?」
真紘はうれしそうに笑っていた。それから、ぽつりと呟いた。
「こうして話を聞いてるうちに、記憶が戻ってきたりしないかな……」
鷹也は線の細い真紘の横顔を見つめた。
「やっぱり思い出したい?」
「……わからない。ただ……」
「ただ?」
遠くの川面に向けられた真紘の瞳は、焦点を結んでいなかった。
孤独な瞳だった。 「もうこれ以上、忘れたくない」
真紘の部屋に戻ると、荷造りの途中らしき段ボール箱が2つあった。
「これなに?」
土手に面した窓のカーテンを開けていた真紘が振り返った。
「ああ、謙司さんの荷物だよ。宅急便で送ろうと思って」
しゃがんで箱の中を覗くと、一方の箱には衣類が、もう一方の箱には本や日用品が入っていた。鷹也の胸がつきんと痛む。
先刻の会話から、鷹也には真紘が抱える不安の正体がわかっていた。真紘は忘れることを恐れているのだ。母親の死をきっかけに母親の記憶を失ってしまったのと同じように、謙司を失った今、謙司の記憶までも失ってしまうのではないかと。 それなのに、真紘はこうして謙司の荷物をまとめている。謙司がいつもコーヒーを飲んでいた大ぶりのマグカップも、ハンガーに掛けっぱなしになっていたカーキ色のシャツも、本当に彼から取り上げてしまっていいのだろうか。謙司が暮らしていた痕跡がこの部屋からひとつもなくなってしまったら、彼はなにを頼りに謙司との思い出を守るのだろうか。 真紘の気持ちを考えたら、鷹也は堪らなくなった。 「これは真紘が持っててよ」
箱の中から謙司のマグカップとカーキ色のシャツを取り出し、傍らに佇む真紘に差し出した。
「でも……」
受け取ろうとしない真紘を安心させるために、鷹也は理由を捻り出す。
「ほら、マグカップは俺が遊びにきたときに使うし、シャツは……寒いときに着るかもしれないし」
ちょっと苦しいかな、と思いつつ笑いかけると、真紘は花のように微笑んだ。
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